芸術見聞録

展覧会の予習、感想など。

没後150年 坂本龍馬展 その3

インスタを見ていて、もう一つ坂本龍馬展が開催されているのを知った。こちらは江戸博物館の話である。 f:id:Hayanosuke:20170614205655j:plain

Railstation.netより。坂本龍馬生誕の地。

江戸博物館の展覧会では司馬遼太郎の「龍馬が行く」に出てくる資料がいくつか展示されている。

池田屋事件があった日に勝海舟が書いた日記、

当に此の時、京師、当月五日、浮浪殺戮の挙あり。壬生浪士輩、興の余、無辜(むこ)を殺し、土州の藩士、またわが学僕望月(亀太)生など此災に逢ふ。

勝の字は極めて判読しにくかったが、「無辜」(罪なき者)の字は確認できた。

幕臣たちはことごとく池田屋の変に快哉をさけんだが、勝のみは不快とした。日記のなかで、「無辜を殺し」という一条に、勝の怒りがあらわれている。(中略)徳川幕府などは単に政府にすぎず、これをもって国家だとおもうのは愚人の証拠だ、と幕臣勝はもし公言できるならばそう公言するような男だ。 

 「龍馬が行く 狂乱編 流燈」より引用。

「公言する」と言えば、こういう話が出てくる。

咸臨丸で勝がアメリカから帰り、翌々日、将軍家茂に拝謁したのだが、老中の一人が、見てきたことを話すように促したところ、

「すこし眼につきましたのは、アメリカでは政府でも民間でも、およそ人の上に立つ者はみなその地位相応に利口でございます。この点ばかりは、まったくわが国と反対のように思いまする。」

「龍馬が行く 風雲編 勝海舟」より引用。

と言ったという。私が勝を好きなのはこういうところだ。頭の悪い人間が上(官僚、政治家、経営者)にゴロゴロいるというのは今の日本と同じだが、誰もが「空気」を読んで、長いものに巻かれている今、こういう人物がいるだろうか? 

自分のささやかな地位を守ろうと、言うべきことも言わずにびくびくしている人間など、どうして尊敬できようか。

芥川龍之介を偲んで その3

f:id:Hayanosuke:20170610234315j:plain

「田端文士村」がくれる「田端散策マップ」に従って進み、童橋を渡ると、「童橋公園」に室生犀星の庭石がある。このマップの裏には文士たちの写真があるが、犀星などとても詩人には見えない。

大体において作家、芸術家の容姿と作品とはあまり関係がなく、容姿端麗な人もいればそうでない人もいる。(「のらくろ」の田川水泡が品の良い紳士なのは驚きである)要するに作品が優れていれば容姿など関係ない。私は30年程前に手塚治虫氏にサインを貰ったことがあるが、よくこのオジサンが「リボンの騎士」のようなロマンチックな話を描けるなと思ったものである。

大正2年頃、雑誌に犀星が書いた詩に当時前橋に住んでいた萩原朔太郎が感動し、ファンレターを送り、文通をした。

ついに犀星が前橋を訪問し、両雄は相会する。もっともこの二詩人の会見は、犀星を蒼白い美少年と想像していた朔太郎が、背が低く肩もいかつく、ステッキをついた、無骨な現実の犀星に失望するという一幕があった。

近藤富枝「田端文士村」74頁より引用。

f:id:Hayanosuke:20170611000534j:plain

近藤冨枝が、「室井犀星という小説家は、昭和のはじめまで、わが水島家の一軒おいた隣に住んでいたということだが・・・」と書いているのはこの辺りである。向かって左が近藤さんの、もう少し先が犀星の住んでいた所だ。

f:id:Hayanosuke:20170611001102j:plain

没後150年 坂本龍馬展 その2

坂本龍馬像

念願だった、「血染めの屏風」を見ることができた。司馬遼太郎の「龍馬が行く」で龍馬暗殺の場面になると、いつも涙で読めなくなる。ほとんど号泣である。

今まで本やテレビ番組でしか見たことのなかった実物を見てゆくと、本当にあったことなんだなぁ・・・と実感が湧いてくる。龍馬自身も自分の個人的な持ち物や手紙が展覧会で公開され、大勢の人に見られるとは思いも寄らなかったであろう。

その中で、「案外小さい」と思ったものがいくつかあった。まず、龍馬が持っていたのと同型のピストル。「寺田屋騒動」で使ったものと同じかは知らないが、今から見ればおもちゃにしか見えない。あとは当時の写真の原板。野球カードくらいだ。

この展覧会の目玉の一つである、龍馬の刀、「吉行」も存外短い。龍馬は長身の割には短い刀を好んだと言われるがその通りだ。概して日本刀というのは思ったより細く、短いもので、実用性を感じさせる。当然のことだが、端から端まで鋭利で、こんなものを振り回されてはかなわない。恐ろしいしろものだが、この刃物を精緻を極めた技で使いこなす侍がいたからこそ、欧米に植民地にされずに済んだのである。

展示場には「パークス襲撃事件」で実際に使用された刀剣も展示されていたが、事件の凄まじさを示すように刃が欠けている。刀剣同士が激突すれば刃も欠けるというもの。

日本の社会に残る、時には無用な程の緊張感はこの真剣を扱うことから来ているのかも知れない。日本人の8割は百姓、町人の子孫だが、侍の規律が社会全体に影響を与えないとも言えまい。

今回展示されている「吉行」は坂本家で保存されてきたそうだが、私の亡くなった父親が、もう70年程前になろうか、北海道に住んでいた時分、近所に坂本という人たちが住んでおり、寄合で「自分たちは坂本龍馬の親戚だ」と常々言っていたという。

その当時、龍馬の名前は今ほど有名ではなく、当時子供だった父は、「坂本龍馬って誰だ?」と思ったという。その時何か質問していれば、龍馬のエピソードとか、遺品なども見せてもらえたかも知れないのにと残念でならない。

ちなみに坂本家が釧路大火に遭ったのは大正2年だから、もうすでに吉行の鞘や柄は消失し、刀身も波紋が消え、曲がりも無くなっていたのであるが。

 

仇敵 (講談社文庫)

仇敵 (講談社文庫)

 

 

 

芥川龍之介を偲んで その2

f:id:Hayanosuke:20170608233808j:plain

田端駅南口へ出る不動坂。芥川はこの坂を下って学校へ通った。

f:id:Hayanosuke:20170608234207j:plain

今はこのような階段があり、容易に上り下りできるが、芥川が居た当時は坂であり、この急角度からすると下まで滑り落ちそうである。

ただ厄介なのは田端の停車場へゆくのに可成急な坂がある事だ それが柳町の坂位長くって路幅があの半分位しかない だから雨のふるときは足駄で下りるのは大分難渋だ そこで雨のふるときには一寸学校がやすみたくなる 

 「田端文士村」62頁より引用。芥川の手紙。

大正時代のことだから、下駄で和服といういで立ちだったとすると、雨の日は滑って泥だらけのまま学校へなんてこともあったのだろう。田端を愛した芥川も、この坂だけは嫌いだったようだ。

「田端文士村記念館」では「散策マップ」がもらえて、文士が住んだ場所を歩くことができる。ただ地図は大ざっぱで掲示板も少ないので、「大分難渋だ」

ここで一首。

不動坂 下駄で歩いた 芥川 階段ならば なんてことなし

 

劇場

劇場

 

 

没後150年 坂本龍馬展 その1

f:id:Hayanosuke:20170608154626j:plain

没後150年 坂本龍馬 - 江戸東京博物館

西洋絵画の展覧会と違って、日本のそれは会期が短いが、展示物の入れ替えが激しいとは知らなかった。行って見たら、龍馬がおりょうと新婚旅行に行った際の手紙がない。京都国立博物館としてもあまり長く貸し出すのは困るのだろう。その代り今年発見され話題になった龍馬の手紙が展示されていた。運が悪いのか良いのか分からない。

坂本龍馬 「暗殺される5日前に書いた手紙」を京都国立博物館・宮川禎一上席研究員が解説 - News Lounge(ニュースラウンジ)

司馬遼太郎の「龍馬が行く 回天編」に龍馬が大政奉還の後、越前福井に出かける話が出てくる。そこで松平春嶽に謁見するのだが、その脇に家老、中江雪江がいた。その中江にあてた書簡である。

福井で獄中にいた三岡八郎由利公正)に煙草屋の二階で面会する話が出てくるが、京都に帰った後、中江に春嶽上京の礼を述べている。龍馬と言うと常識破りというイメージがあるが、細かい気配りのできる男だったということが分かる。

「三岡の上京が一日遅れれば、新国家の財政が一日遅れます」という文面は司馬遼太郎も知らず、草葉の陰で悔しがっておいでだろう。

鳥羽伏見の砲煙がおさまるや、三岡は大坂にのりこみ、鴻池善右衛門以下一五人の富豪をあつめ、かれらを新政府の会計方御用係に任命し、さらには大坂のおもだった町人六百五十人をあつめ、御用金調達を命じた。(中略)

人心はこのために安定し、(中略)無から発足した新政府に基金もでき、その基金が東征の軍資金にもなった。

 「龍馬が行く 回天編 近江路」より引用。

 三岡がいなければ明治政府はほどなく潰れていたかも知れない。龍馬は財政の重要性を誰よりも分かっていたのである。

 

 

 

芥川龍之介を偲んで その1

NHK、Eテレの番組、「高校講座ベーシック日本語」を見て、「田端文士村記念館」というものの存在を知ったので尋ねてみた。

NHK高校講座 | ベーシック国語 | 第5回 文学史〜芥川龍之介〜

田端の町は図書館などを利用するために何度か訪れたことはあったが、ここが作家、美術家の一大中心地であったことは寡聞にして知らなかった。

f:id:Hayanosuke:20170607225523j:plain

この記念館が出来たのはおそらく、近藤冨枝著(昨年没)の田端文士村 (中公文庫)に負うところが大きいのだろう。(記念館では10月1日まで近藤氏の取材ノートなどの展示が行われている。)田端文士村記念館 記念館を訪れる際には事前に一読することをお勧めする。瞬く間に興味が湧いてくるだろう。

無料だけあって展示はささやかなものだが、それでも芥川龍之介室生犀星萩原朔太郎など作家の自筆の手紙などがある。「田端文士村」の本で小さく載せられている写真や絵の実物があり、登場する人物の写真もあるので、この本を補足する格好だ。

昔の作家の作品は学校で使うような作文用紙に丁寧に書かれていて、見ていると自分でも何か書けそうな気がしてくるが、ここに展示してあるのは現代の作家が及ばない才能の持ち主ばかりなのだ。

ここの目玉は芥川邸を再現した精巧な模型である。「高校講座」では特殊なカメラを持ち込んで撮影したため、芥川の部屋は大きく見えるが、実際はかなり小さいので驚いた。当時の田端ののどかな雰囲気が感じ取れる。

展示には昭和2年の芥川自殺を報じた新聞記事の切り抜きもある。当時かなりショッキングな事件だったことが見て取れる。親交のあった小穴隆一の描いた死後の芥川の顔を描いた絵もある。

小穴の描いた芥川の死に顔を手に取ると、それはすばらしい傑作だった。すくなくとも小穴が平常いかに芥川を見ていたかがわかり、その優しい弱り方をそっくり写し上げているところに、手腕と真実さがあると犀星は思った。

 (近藤冨枝「田端文士村」240頁より)

芥川龍之介というと、自殺した人ということもあり、なんとなく敬遠してきたのだが、この「田端文士村」を読むと、世話好きで社交的、人を辛辣に批評することはあったが、声を荒らげたとかいう話は一切ない。玄関に「忙中謝客」と貼ったものの、訪問客を断り切れない人の良い所もあった。

今芥川の作品を読んでみると、学者並みの知能と豊かな想像力、ユーモアのセンスを兼ね備えた稀有な人で、天才という他ない。(日本人は何か優れた人を見るとすぐ「天才」と言うが、そうそう天才がいてたまるか・・である)

「どうして死んでしまったのだろう?」という言葉が、何度も何度も頭の中をよぎる。

 

奉教人の死 (新潮文庫)

奉教人の死 (新潮文庫)

 

 今読んでいる本。活字も大きくなり、注釈も親切でかなり読みやすい。切支丹を題材にしたのは遠藤周作が初めてだと思っていたが、遠藤も芥川を範としたわけだ。

レオナルド×ミケランジェロ展 予習 1

4年前に東京都美術館レオナルド・ダ・ヴィンチ展が開かれ、ミラノのアンブロジアーナ図書館・絵画館から『アトランティコ手稿』22点が展示された。

ミラノ アンブロジアーナ図書館・絵画館所蔵「レオナルド・ダ・ヴィンチ展―天才の肖像」|TBSテレビ

この展覧会ではヨーロッパの主要な美術館でも観ることができないダ・ヴィンチの本物の手稿がずらりと展示され、今でもその強烈な印象が残り、あれを観る前と後では物の見方さえ変わってしまったと言っても過言ではない。

今回三菱一号館美術館で開催される「レオナルド×ミケランジェロ展」は遠くそれに及ばないが、トリノ王立図書館が所蔵する「女性の頭部のスケッチ」が来日する。

www.google.com

最小限の線と陰影によって、形態からその人の気質までをも写し取るレオナルドの卓越したデッサン力が、遺憾なく発揮されている。

西洋絵画の巨匠 8 レオナルド・ダ・ヴィンチ 池上英洋著 p.21より引用

 

このデッサンを元に描かれたとされるのが、ルーブルにある「岩窟の聖母」(デ・プレディス兄弟と共作) である。

 拡大図 

https://en.gallerix.ru/pic/_UNK/991555443/1612438096.jpeg

注文主からは登場人物、その配置、様式、技法について細かく指定されていたが、レオナルドはそれらを無視し、通常聖人画で頭上に描かれる光輪さえ描かれていない。

レオナルド・ダ・ヴィンチ」池上英洋著 p.18より。

君は知らないのか、人間美のなかでもっとも美しい顔が見物人を引きとめるのであって、その豊富な装飾ではないことを?(中略)君は粗野でまずしい布をまとった山の娘が飾りめかした女よりすぐれた美しさを身につけているのを見たことがないか? 

 

心の情熱を表現する動作が人物にあらわれないかぎり、その人物画は賞讃に値しないであろう。その心の情熱を動作によって上手に表現すればするほどその人物画は賞讃すべきである。

 レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上 (岩波文庫 青 550-1) p.232、235より引用

 

失われたパリの復元: バルザックの時代の街を歩く

失われたパリの復元: バルザックの時代の街を歩く